5-3 ごはん料理アラカルト

5-3 ごはん料理アラカルト

< 麦 飯 >

 江戸っ子のしゃれに「豆、小豆、麦やお芋とへだつれど、混ぜれば同じかて飯の種」というのがあります。かて(糅)とは節約のための増量材として米に混ぜて炊く具のことで、かて飯は今でいうかやくご飯(炊きこみ飯)の元祖のようなものです。

 なかでも麦飯は庶民の食べものとして食卓に並ぶことが多かったのです。奈良時代にはムギ栽培が奨励されてはいたものの、農民にはあまり歓迎されなかった ようです。その後平安時代に無住一円が著した『沙石集』(1279年)には、麦飯は珍味だとの描写があり、この当時はまだ一般的ではなかったと推測されま す。麦飯の記録が頻繁に出てくるのは室町時代に入ってからです。当時の貧乏公家衆の日記には麦飯の記事が散見できますが、庶民の主食として定着するのはむしろ戦国時代以降といえるかもしれません。農民が食べていた米が戦場での兵糧としてまわされたため、仕方なく麦飯を食べなければならなくなったからです。

 江戸時代になると米は重要な作物になります。たとえば落語の原典ともいえる江戸時代・初期の『醒睡笑(せいすいしょう)』に、こんな話が記されています。

 ある家に客が来たので、主人が「飯はあるが、麦飯だからおいやであろう」というと、客は「わたしは生まれつき麦飯が好きで、麦飯なら3里(12キロ) 行っても食べる」と答えました。それならと、主人は客に麦飯をふるまったのです。それから何日か経って、また、その男が訪ねて来ました。「あなたは麦飯が 好きだから、今日は米の飯があるが出しませぬ」というと、男は「いや、米の飯なら、5里(20キロメートル)行っても食べよう」といって、また食べまし た。彼にとって、米の飯はそれこそ憧れの食べものだったのです。

 また、1731年の『百姓襄(ぶくろ)』には「田家(百姓)の食物、麦を第一とする。アワまた勿論…」と書かれています。

 要するに、米を中心に政治・経済を取りしきっていた徳川幕府体制を支えるためには、農民に米を食べさせるわけにはいかなかったのです。

 麦は粒のままでは煮えにくく、ついてから一度ゆで(うましという)、飯に炊きこみます。西行法師の歌に「賤(しず)の女がかたつき(片搗)麦をほしかね て宵ねやすらん五月雨(さつきあめ)」とありますが、「片つき麦」とは麦を水につけるか、水をふってついた麦のこと。一度糠をとり再びついたものを「真 (ま)つき」「もろつき麦」といい、さらにそれを挽割りしたものが「挽割麦」。現在は押しつぶした押麦や、二つに割って米の形状に似せたものが多く、真つ き麦はゆでて米に混ぜ、押麦は洗って米と一緒に炊きあげます。混ぜる割合は以前は1対1、あるいは麦7、米3の割合で、最近は逆で健康食として麦飯を食べ る人が多くなりました。

 すりおろしたヤマノイモに味噌汁を加えて調味したとろろ汁を、麦飯にかけたのが「とろろ飯」。麦のほかに、粘りっ気のある粟を炊きこんだのが「粟飯」、だいたい粟4、ウルチ米6の割合で炊きあげます。ここでいう麦とは大麦のことです。

 このほか、おからやダイコン、ダイコンの干葉、サツマイモ、サトイモ、ヒエ、キビなどを炊きこむ飯があり、これらが日常に食する一般的な飯だったようです。

 麦飯

< 豆 飯 >

 おめでたい時に、固ゆでの小豆をゆで汁とともにウルチ米に混ぜて炊くのが赤小豆(あずき) 飯。モチ米をゆで汁に浸けて染め、ゆで小豆を混ぜて蒸したのが赤飯です。この赤飯という言葉は鎌倉時代に出てきます。この赤飯は古代の人らが赤米で炊いて 食べていた名残りともいわれていますが、定かなことは分かっていません。ウルチ米に混ぜる豆類は、小豆のほかに地方によってはささげを用いることもあり、晩春から初夏にかけてはえんどう豆とかそら豆、夏は枝豆、秋は炒り大豆、この炒り大豆を混ぜ煎じた茶の汁で炊く奈良茶飯などがあります。

< 菜 飯 >

 ダイコンやカブ、ニンジンなどの葉を刻み、塩もみ、あるいはゆでてから刻み炊きたての飯に混ぜるのが菜飯。これら以外にも、ダイコンの干し菜やよめな、春菊、緑の芽じそ、うこぎやはすの新芽を混ぜるうこぎ飯や荷葉飯(はすめし)等があります。ダイコンを炊き込むとダイコン飯です。 

< 染 飯 >

 赤や黄、茶に染めて炊く飯のこと。小豆入りの赤飯もこの一種です。茶を煮出しその染汁で炊く「茶飯」、くちなしの実を煮出し、その黄汁で炊く「くちなし飯」、別名、「黄飯」と呼ばれるものなどがあります。茶飯は、今でも奈良地方を中心に食べられており、黄飯は、静岡や大分などにその面影をとどめたものがあります。 

< 魚 飯 >

 魚貝類を炊きこんだもので、江戸時代は、味つけしただし汁をかけ、薬味をそえて食べていました。最近は、ほとんどしょう油で味をつけて炊きこみ、魚もタイやカツオ、イワシ、カキ、アサリ、タコなどを使います。

魚飯 

< 炊きこみ飯 >

 かやく飯、味飯(あじめし)あるいは五目飯ともいいます。油揚やゴボウ、ニンジン、こんにゃくなどを細かく切り、しょう油で味付けして炊きこんだり、タケノコやマツタケなどを主材料にして炊きこむものがあります。これを、一人用の小さな釜で炊くと釜飯です。かやくとは、主役である米にあわせる具をさすのです。昔の農村や山村、漁村では味噌が調味料の主役でしたので、しょう油を買って(自家製もありましたが)味つけするのがごちそうでした。 

< 餝飯(ほうはん) >

 室町時代に流行した飯の上に味つけした具をのせた飾り飯のこと。当時の上流階 級の食べもので、見た目の美しさと手軽さとがうけて、客膳はもとよりお茶事にも用いられました。この飯は、もともと僧家における料理で、野菜や乾物を細か く切って味をつけ、中国の思想、陰陽五行説にもとづき、白、黄、赤、緑、黒と五色の具を白い飯の上に美しく飾ってすまし汁をかけて食べます。

 江戸時代中頃になると、具の飾り方や食べ方が、女子の教養書にも記されるようになりました。具も、ハマチやイワシ、カキ、ハモ、ナマコ、シジミ、タラコ、タコ、アワビなどを煮たり焼いたりして使うようになりました。
 鶏や鴨の肉をゆでて、身をむしって入れるのが「鳥飯」。この鳥飯の名残りが沖縄や八重山の「鶏飯(チーファン)」で色の取り合わせも陰陽五行説にそって います。鶏の挽肉で作る「おぼろ飯」もこのたぐいです。徳島に郷土料理として残る「包飯」は、米にそばの実や鶏肉、油揚を入れて炊きこんだ飯に、千切りし たニンジンやシイタケ、タケノコを薄味で煮て、だし汁ごと飯にかけて食べます。大分県臼杵市の黄飯もこの仲間でしょう。 

< 丼 飯 >

 牛丼やカツ丼、天丼にうな丼、親子丼、卵丼などがあります。丼に盛った飯の上におかずを汁ごとかけたこれらの丼ものは、餝飯の流れをくむものです。丼 鉢が食器として大いに用いられるようになるのは、江戸時代も後半のこと。しかも、最初はおかずや菓子を盛る鉢として利用されていました。19世紀の初期に 都市のそば屋が丼として使い始めて、うなぎ屋でもうな丼を提供し始めたとのこと。牛のすき焼きを飯の上にかけた「牛飯」は明治時代、タマネギやニンジン、 ジャガイモ、牛肉で作ったカレーを飯にかけるカレーライスは大正の頃、鶏肉と卵で作る親子丼は昭和の初め、カツ丼は昭和10年頃から頻繁に食べられるよう になりました。

 汁かけ飯の一種に伊予(愛媛県)の「さつま」があります。鹿児島や宮崎では「冷や汁」といわれ、焼き味噌に焼き魚の身をほぐして加え、すってだし汁での ばして麦飯にかけて食べます。干したミカンの皮を細かく刻んだ陳皮(ちんぴ)や、青じそ、ネギ、ゴマなどを薬味にします。

丼飯

< 茶漬け >

 本来は、平安時代の水漬けや、鎌倉・戦国時代の湯漬けを元にしたもので、冷や飯に茶を炊き出した汁をかけて食べる軽便食です。茶漬けが食べられるようになったのは、茶が日常茶として普及する江戸時代も中頃・元禄のことです。

 もともとは、冷や飯を温かくするためだった茶漬けも、今では温かい飯に熱い茶をかけるように変わってきました。具も実に豊富になり、あられや梅干し、昆 布や貝、うなぎの佃煮のほか、えび天やタイ、カツオの刺身などをのせる変わり茶漬けもあります。焼きのりを上置きにし、だし汁をかけて食べる「のり茶」こ そ、本来の汁かけ飯に最も近い食べものといえるでしょう。

< 雑 炊 >

 「みそうず」とか「曽水」と書きます。石田三成に仕えた下級武士の娘の逸話に、こんなのがあります。いつも朝・夕に粥か雑炊を食べていたのですが、兄が 時どき鉄砲打ち(害獣であるイノシシ、シカ、ウサギ、害鳥のキジなどをとる)に行く日だけは、菜飯を炊いて弁当を持たせていました。その時だけは、自分も 相伴(しょうばん)にあずかれるので、菜飯食いたさにたびたび鉄砲打ちに行くのをすすめたというのです。菜飯を食べれる日が、ことのほかうれしかった (『おあん物語』)と語られています。

 戦国時代の下級武士にとって、白い飯はまさに高嶺の花。菜っ葉を炊きこんだだけの菜飯でもご馳走でした。世情が安定していた江戸時代でも、下級武士はな かなか白い飯にありつけなかったのです。江戸時代後期の物価をみてみると米1升が80~120文(今の価格にして約784~1176円)、かけそば 12~16文(118~158円)、散髪代が16~32文(118~314円)です。米価と他の物価を比較すると、当時米がいかに高価であったかがわかり ます。下級武士や浪人が、かさやちょうちんの内職に励んだのもこの辺に理由があるのかもしれません。少しの米をいかに食いのばすかが庶民の知恵だったので す。

 雑炊は米に野菜や魚介類、鳥肉などを和して炊いた粥で、味つけに塩やしょうゆ、味噌などを使いました。そ の具は『名飯部類』(1802年)によると、カブラ、ダイコン、およびそれらの葉を干した干葉(ひば)、ミズナ、セリ、ヨメナ、ニラ、ナスビなどのほか、 豆腐、おから、そばを用いました。裕福な人は時には贅を尽したとみえ、クジラ、フグ、カキといった海産物を用いたり、小鳥や鴨などを使うこともありまし た。

雑炊という言葉は京阪で多く使われ、おじやは江戸の言葉。一方、信越では、江戸時代後期に米ではなくアワやヒエを使っています。  食料事情がよくなった現代では、一流料亭でも雑炊をだしますし、雑炊専門店もなかなかの盛況ぶりです。軽便食として即席雑炊も人気を得ています。ダイエット健康食としてとらえられているからです。価値観の逆転です。もともとは貧乏な食べ物でした。

< 粥 >

 米の炊き方の基本です。素焼きの土鍋で炊いていた弥生の頃、これだと絶対に焦げる心配はありません。雑炊との違いは基本的に、味つけしてないのが粥。水 加減によって呼び方が変わるというのも粥ならではのことで、普通「白粥」というと、米1に対し水5の割合で炊いたものをさし、全粥ともいいます。これに対 し、米1に対し水7で炊くものを「7分粥」、米1に対し水10で炊いたものを「5分粥」、米1に対し水15で炊いたものを「3分粥」といいます。この分類 法は感覚的なもので、米と水の割合は非合理で今の若い方には分かりにくい。むしろ、水が米の5倍粥、7倍粥、15倍粥とした方が理解しやすいでしょう。

 この粥を炊く時に、春の七草をゆでて刻み混ぜたものを「七草粥」。正月7日に食べるのが習慣でした。ゆで小豆を混ぜると「小豆粥」、水のかわりに、煮だ した番茶で炊くと「茶粥」、この茶粥にサツマイモやそら豆を入れると「芋茶粥」、「豆茶粥」。京阪では、戦前まで町家の白粥、農家の茶粥といわれていまし た。今でこそ朝に粥を食べる家もめっきり少なくなり、白粥といえば腹をこわした時の食べものと思われています。しかし、健康指向時代を迎えている今日、大 都市の有名ホテルなどでは朝粥と呼び、これにいくつかのおかずを添えた朝食セットが人気です。

< にぎり飯 >

 平安時代の屯食(とんじき)が起源。弁当をはじめ、非常食の応急食としてうってつけの食べ方です。おかずも少量ですみ、食器、食具も必要なし。また、食欲のない時でも、にぎり飯だと不思議に手がでるという人も少なくなく、食べやすさと肌から伝わるぬくもりが人気の理由です。
 梅干しや削りかつお節、塩サケ、タラコなどを具にしてにぎるのが一般的です。最近では種類も実に多種多彩になりピラフで作る洋風おむすびもあります。
 にぎり飯をつつむ材料も、のり、おぼろ昆布や野沢菜やたか菜の漬物、あるいは、きな粉などといろいろです。このほか、炭火やオーブントースターで焼いたり、味噌風味にしたりと、好みによって楽しめます。
 型も丸型、三角、俵型などがあります。ボール型は九州、三角は東京、俵は大阪、京は卵型(平安時代の流れを汲む、鳥の子とも呼んでいる)、東北は円板 型。東北地方では、三角は仏飯といって敬遠されがちですが、いずれも、熱いうちににぎらないと味もつやも悪く、しかもにぎりづらいものです。江戸時代は焼 きおにぎりを焼きめしと呼んでいました。おむすびは江戸城大奥に勤めた女房たちの言葉です。

にぎり飯

< 物相飯(もつそうめし) >

 物相とは、ひとり分ずつの飯を盛る器のこと。盛りきりの飯を物相飯といい、寺院で斉会(とき)があった際に大勢の僧に食事を供するのに用いた一種の型ぬき飯です。皿 に高盛りにすると飯がくずれてしまうので、木製の筒状の抜き型や、深い土器に飯を詰めて押し出したり、伏せて出したりしました。今でも、主として料亭など の弁当にみうけられます。全体的に小食傾向にあるので、小型のステンレス製の型が使われ、形も、従来の筒型のものだけでなく、松、竹、梅、千鳥、ひさごな どがあります。
 白いご飯以外に、おこわやかやく飯も、よく物相飯として用いられます。チキン・ライスも一種の物相飯です。箱に飯を詰めて抜き、適当な大きさに切って食べる飯を「切り飯」といいます。

物相飯(もつそうめし)

< 印ろう飯 >

 イカや油揚げに洗った米を詰め、調味しただし汁で炊く飯。イカの印ろう飯は、函館本線・森駅の駅弁として有名。全国駅弁大会で最も人気があります。油揚の印ろう飯は、鳥取県の境港あたりで作られている「ののっこ」が代表的なものといえるでしょう。

 
印ろう飯 

< きりたんぽ >

 飯をつぶして杉の木の串に刺し、炭火で焼きあげたもの。秋田名物としてよく知 られており、秋から初冬にかけて食べる郷土料理です。もともとは木こりや山で仕事をする人びとの食べ物だったようです。炊きたての白米を臼に移して杵でこ ねます。それを小さなボール型に丸め杉箸の先に刺しました。これがたんぽです。たんぽの省力化で生れたのがきりたんぽ。きりたんぽは半搗にした飯をちくわ のように杉箸に巻きつけ、囲炉(いろ)り端でこんがりと焼いて味噌を塗って食べます。あるいは焼いた長いたんぽを串から抜き、5~6センチの長さに切っ て、鶏やマイタケ、セリなどと入れ、味つけしただしで煮ます。これが「きりたんぽ鍋」です。 

きりたんぽ 

< 五平餅 >

 主に、信州や飛騨で作られています。きりたんぽが新米の飯をこねるのに対し、五平餅は必ずしも新米にこだわらず、むしろ品質の悪い米をやや固めに炊いて半づきにし小さくまるめて2~3個竹串に刺すか平たい杉串に刺したもの。多くは平たくだ円形に整え、炭火で焼いてクルミ味噌や山椒味噌、ゴマ味噌、エゴマ味噌などをつけて焼き上げます。
 五平餅の名前は五平という木こりが考えたという説と、豊饒を感謝して飯を御幣の形にして、田の神に供したという説とが語り伝えられていますが、後者の方が説得力があります。