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6膳と弁当箱の歴史
6-2 弁当箱の始まりは安土桃山時代

 旅先で、あるいは野良や山仕事、あるいは漁に出かけて仕事する場合には、食べものを持参して空腹を満たさねばなりませんでした。古代から携帯食品として貴重だったのが糒(ほしいい)です。いわゆる飯を干したもので、夏なら水で冬ならば湯につけてふやかすだけ。もっとも米のでんぷんが完全にアルファ化しているので、水がなくてもよく噛めばそのまま食べても消化がよく、戦国時代の行軍食や旅の携帯食として欠かせないものでした。「糧袋(りょうぶくろ)」という麻袋に入れ携帯するのが常で、最近の菓子材料に用いられる「道明寺干飯」やインスタントの強飯(アルファ化米)の原形は、この糒なのです。別の言葉でかれいいともよびました。このほかに米をモミのまま焼いてはぜる焼米(やきごめ)もあり、これはそのまま食べることができます。

 一般的に、外に持ち出して食べる便利な料理を弁当と呼んでいますが、その主役は必ずしも飯だけではなく、粥や雑炊を手提げの面桶(めんつう)やおひつに入れて持っていくこともあり弁当箱という道具が生まれるのは、安土桃山時代です。というのは、1597年の辞典「易林本節用集」、またはそれより6年後に出た日本/ポルトガル語辞典「日萄辞典」にも弁当という言葉がのっているからです。当時の風俗絵にも弁当を広げて花見をする様子が描かれていますし、その後の風俗絵にも、物見遊山のための提重(手提の重詰弁当)がでてきます。実は弁当の文化は中国から入りました。便当と書きます。便利という意味ですが、竹製の食籠に食べ物を詰め、持ち運びでき(と書く)、当座に便利ゆえに便当としたのでしょう。江戸中期になると花見、船遊び、ひな祭り、旅迎え、病気見舞いなどの料理の詰め方を教えたテキストブックも出版されました。幕の内弁当が登場するのは江戸末期で、名古屋(元禄の頃)や大阪では芝居弁当と呼んでいます。

 手軽な弁当といえば、旅立ちの時の腰弁当。にぎり飯を竹の皮で包んだり、杉やひのきを薄くはいで曲げた面桶、あるいは柳行李といった弁当入れに飯を詰めふろしきに包んで腰や肩にかけました。今の駅弁はこの腰弁当から発達したものです。
 弁当はその用途に応じて労働のための弁当、旅のための弁当、物見遊山のための弁当に大別されます。労働や旅のためのものは実を重んじた内容になり、物見遊山の場合は、どちらかというと色どりを楽しむことに焦点をあてています。腹を満たすというより酒肴が主になります。
 家庭において、主婦が弁当作りに精を出すようになるのは明治以後です。勤め人や通学者が全国的に増え、朝に粥を食べていた家でも、弁当用の飯を炊く必要性が生じ、しだいに朝食にも飯を食べる家庭が都市部で多くなりました。
 飯が主体であった労働食、あるいは学徒の昼食としての弁当も食料事情がよくなるにつれて弁当箱のおかずの種類が増え、その詰め方もファッショナブルになりました。おかずの量が増えた分だけ飯の量が減り、農・山・漁村の弁当も都市型に近づいてきました。
 外食産業のはしりであり、その雄ともいってよい駅で売られる幾多ある華やかな駅弁、あるいは料亭で食べる弁当、劇場で食べる幕の内弁当、百貨店やスーパーマーケットで売られる弁当の多くは飯が冷えたものですが、やはり飯は温かいほうがおいしいものです。その欠点をついて出現したのが炊きたてのように温い飯を詰めたテイクアウト専門のあったか弁当です。これはおかずより飯の方に重きを置いているところが特色です。この頃では夕食まで弁当を利用する家庭が増えています。

木の葉の役目
 にぎりめしを笹の葉に包んだり、ちまきやかしわ餅をアシや竹の葉、カシの木の葉で包むのはこれらに含まれている植物性の揮発性の物質フィトンチドの殺菌効果を利用して食物を長く保存するためです。竹の皮や笹の葉にはサルチル酸が含まれ、この物質はことに殺菌力が強く、コレラ菌まで殺すそうです。あん入りの笹ちまきが夏でも一週間は持つのはサルチル酸のおかげです。にぎりずしや折り詰め、重詰めに笹の葉やハランを敷いたり、仕切りに使うのはそのためだったのです。杉の葉やひのきの葉も使いますが、これらは殺菌のほか脱臭作用もします。干物売場の魚の下にひのきの葉を敷くのはそのためで、ヒノキオールという物質がその役目を司どっています。冷凍庫や冷蔵庫の普及で物がたやすく保存できるようになり、日本人が長い暮らしの中で築いてきた知恵が失われています。

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