8-1 米のお菓子は平安時代からあった

8-1 米のお菓子は平安時代からあった

 今から1300~1400年前、飛鳥・藤原・奈良時代には、菓子といえば梨や桃、干柿、柑子(こうじ=みかん)、侑子(むべ)、栗、胡桃(くるみ)、かや、椎、いいちこ(いちいの果実)などの果物や木の実のことでしたが、そのほかに唐菓子(からくだもの)と呼ばれる米の粉を練り、形を整えて油で揚げる中国伝来の菓子もありました。室町時代から戦国時代、江戸初期の僧侶の日記や茶会記をひもとくと、粽(ちまき)やあん餅、小豆餅、あん入りよもぎ餅、焼餅、さめがい餅、ごぼう餅、油炒り米などが菓子として登場しています。

団子、せんべい、おはぎ、かしわ餅

 粽は平安時代からあり、米の粉を練りまこもの葉やあしの葉に包んで蒸すか、または、ゆでてつくります。今は5月5日に食べる習慣ですが、当時は上流階級の女性の間食であったようです。その頃はひき臼がなかったので、米を水に漬けて竪杵でついてどろどろの粉状にし、袋に入れて絞り、乾燥させた新粉(しんこ)を使いました。回転式の大きな石臼がすでに中国から奈良時代に伝わっていましたが、これは小麦を製粉するためのものでした。小型のものは11世紀になってからです。臼は茶をひくためのもので米や小麦粉をひく道具ではなく、粉ひき用の回車式石臼が一般農家まで普及するのは江戸時代に入ってからです。粉製品である団子類が日々の食べ物として登場するのも江戸時代ですし、この石臼のおかげで農村ではくず米をひき、米団子を作って代用食や間食にしました。米の粉を食いのばすために小麦やアワ、キビ、干したサツマイモの粉などを混ぜることもあったのです。
 一方、神事や仏事に大切な米を粉にし団子を作って供えました。また、団子類が菓子屋で売られるようになるのも餅同様です。  日本の伝統的な菓子の主流は、モチ米やウルチ米を原料とする餅と団子類でした。江戸時代にお目見えする菓子専門店や茶店に並ぶ菓子も、これらが大半を占め、しかも、餅や団子作りを生業とする職人によって、個性豊かな味と形の和菓子が作られるようになりました。
 ところで、餅と団子の区別がはっきりしないのが現状です。ウルチ米の粉で作ったあん入りの団子を柏の葉で包むと「柏餅」、あるいは、モチ米の粉を蒸したういろうを「ういろう餅」、モチ米を寒に粉にして乾燥させた白玉粉で作る餅を「白玉団子」と呼ぶなど。団子と名をつけて売っている菓子をみてみると、その形は小さくて丸いのが特徴です。しかも、あんが入っていません。上新粉(ウルチ米の粉)や白玉粉で作られているのも特徴といえるでしよう。米を原料にした菓子は多く、あん餅類以外に、モチ米とウルチ米を合わせて炊き、半づきにしてあんや、きな粉をまぶすおはぎ、また、上等の白玉粉に砂糖を加えて加熱し練りあげて作るぎゅうひ類、モチ米を蒸して干す道明寺粉で作る「さくら餅」、「つばき餅」から、「ぜんざい餅」、「みたらし団子」、「らくがん」、「せんべい」(関西ではおかき)にいたるまで実に華やかです。

せんべいとおかき
 煎餅の歴史はふるく奈良時代から平安時代にかけて伝わりました。それは唐菓子(からくだもの)と呼ばれるもので米の粉や小麦の粉をこねて油で揚げたものでした。これがのちに二つの方向に別れ、モチ米を蒸してついて薄くのばして、炭火で焼く江戸でいう塩せんべいや草加せんべい。小麦の粉で作るのが亀甲(きっこう)せんべいや瓦せんべい(今は神戸の名物になっていますがもともとは江戸のもの)などです。関西ではこの二つを区別し、小麦粉で作るものをせんべい、モチ米で作るものをおかきと呼んでいます。おかきには餅(もち)を薄く切って干し、焼いたものもあります。