2-4 生活の中心は米づくり

2-4 生活の中心は米づくり

 米作りは大量の労働力を必要とします。田植えにはじまって除草、収穫、脱穀と、稲作にともなうさまざまな作業は、機械化されるまでの何千年間にわたって、わずかな畜力をのぞいてはほとんどが人力によってのみ行われてきました。その結果、農民の生活は稲作を中心とした農作業暦によって大きく律せられ、いわゆる農繁期と農閑期という季節的なリズムをつくりだしました。そ して、農民の間では、相互扶助的な結(ゆい)と呼ばれる労働慣行が生まれ、村という共同体のなかで慣習的規律にしばられる閉鎖的な生活が、近世以降顕著に みられるようになります。各々の村にはある一定の習慣があり、農民はそれに従って生活することを義務づけられました。その規律に違反した場合村八分と呼ば れる制裁がくわえられたのです。

村八分(むらはちぶ)
 村の共同生活の秩序を維持するため、さまざまな規約が定められ、それに違反するものにたいしてくわえられた制裁のこと。江戸時代には村八分、町八分あるいは村はずしなどといいました。村における重要なつきあいを、元服・婚礼・葬儀・普請・病気・水害・旅行・出産・追善・火事の10とし、このうち葬儀と火事のさいの消火をのぞく8つのつきあいを拒否することであるという説がありますが、本来は「ハブク」、「ハッチル」などということばとおなじく仲間から除外されることをさすと考えられます。最もきびしい場合には、村払いと称して村から追放されることさえあり、なかには酒をださせるとか、道の普請をさせる程度ですまされることもありました。こうした共同体的な制裁は、ほぼ明治末期には姿を消したものとみられていますが、今日においてもさまざまな形で村八分は生きのこっています。

 近世の太閤検地以降、農民は移動を禁止され土地に定着す るようになります。五公五民とか六公四民といって、収穫の半分あるいはそれ以上の高い年貢をとりたてられ、農民は質素倹約、勤勉を旨とする政策がとられま した。政治的に抑圧された立場の農民層の間でさまざまな対立や闘争がみられ、とくに小規模な農民層の比率が高かった江戸期には、同じ村落での農民間の階 層・貧富の差が生じ、下層農民は上層農民や村役人の不正・横暴に対して村方騒動と呼ばれる闘争を起こしました。また、村と村の間でいわゆる山論、水論とい う山野原や水の利用をめぐる境界争いや領主の課する高い年貢と不法な労役に反対する百姓一揆が頻繁に起こりました。こうした運動形態のなかに、当時の封建 制社会で抑圧されていた農民層の意識を読みとることができます。
 都市が形成される中世末期から戦国時代を経て、国内が安定する近世には、江戸、大坂、京都といった大都市のほかに、各藩の城下町、海運の発達にともなう 港町や各街道沿いの宿場町などが栄えました。こうした町で、いろいろな商業活動を営む人びとが町人となり、場合によっては手工業者も町人のなかに含められ ました。
 豊臣秀吉による天下統一後、太閤検地と刀狩りの実施によって武士階級は城下町に住むようになり、商人や手工業者も武士の生活を支えるために城下町に集中するようになりました。
 その一方、農民は中世における場合と異なり、移動する自由をとりあげられ原則として武具を持つことも禁止されてしまいます。そして、村に住みもっぱら米 の生産に従事する生活を強いられました。これがいわゆる兵農分離です。江戸時代に士農工商という四大身分制を確立した幕藩体制のもとで、ますます都市と農 村の分離が明確になっていきます。
 武士は城下町に住んでいたので、村で農民を実際に支配していたのは庄屋や名主などの村役人でした。近世以降の村には、検地によって登録され年貢米を納め 様々な労役義務をになう本百姓(ほんびゃくしょう)のほかに、耕作地をもたない零細な農民もいました。17世紀後半になると、こうした零細な農民のなかか ら小規模ながらも耕地をもち、他の有力な富農層と同じように年貢を納める義務をもつ本百姓となっていく人もいました。そして、そのほかの者は水呑百姓(み ずのみびゃくしょう)と呼ばれていました。
 都市部に住居する町人層は、農民と同じように武士によって支配された被支配階級の人びとでした。町人は都市部の町で多種多様な商業活動に従事し、家を 持って家族や使用人や借家人などの面倒をみたのです。そして、領主や幕府に対しては、人足、普請、掃除といった雑多な労働奉仕を義務づけられていました。

 このように、城下町や都市住まいの町人と、村にしばりつけられていた村人とは、ともに領主の支配を受けていたとはいうものの商農分離政策によってはっきりと異なる位置づけをされていました。
 17世紀中頃以降、米の商品化や都市向けの換金作物栽培化が進むと、米や野菜などの売買を通じた村と町との交流が盛んにおこなわれるようになります。江 戸中期以降、農民のなかから米を商品として販売する動きがおこり、とくに江戸の米問屋のなかにはこうした商品米を扱う者が多くみられました。
 近世の前期までは、農業用の肥料としては刈りしきとよばれる草肥が中心でした。それが後期になると、いわゆる金肥といわれる海藻、イワシ、ニシンなどの 海産物が用いられるようになります。農業用肥料を生産する漁村地域と農村地域とを結ぶ商業活動が盛んになり、とくに大坂(現在の大阪)ではこうした海産物 の商品取り引きが活発になりました。
 金肥は米以外に、菜種や綿花などの換金作物栽培にとっても不可欠であり、都市や町の近郊に住んでいた農民は年貢として納める米の裏作として、いろいろな種類の雑穀や野菜類をつくっていました。